電車の中の恋人

酒とタバコと電気ベースと料理とキャリア…まあいろいろ

運は運であって実力ではない

「運も実力のうち」とよく言いますが、私がこれまで出会った超絶仕事ができる人やそれなりの地位にいる人はみんな、自分のことを「いや、ホントに運が良かっただけだから」と言います。謙遜しているわけでもなく、嫌みのつもりで言っているつもりでもなく、純粋に運が良かっただけであって、なぜそうなったのか分からないそうです。

こう書くと「いや、日頃から努力していて、結果的にそれが運を引き寄せた、もしくは努力していない人は寄ってきた運に気付かずに取り逃がすものの努力しているから寄ってきた運を確実に掴んだわけで、やっぱり実力でしょう」と言う人がいます。それすら認めたくないひねくれ者は、努力していなくても運が良い人のことを才能と言いますが、努力の積み重ねをひっくり返すような才能などこの世にありません。

認めたくない気持ちはよく分かります。努力してもしていなくても運良く成功しているのは理不尽です。「自分はこんなに努力しているのに報われない」と思っている人は、決して努力が足りないわけではなく、単純に運が悪いだけであって、その逆の人は単純に運が良いだけです。

それで自身の境遇や世の中に対して文句を言いたい気持ちもよく分かります。もう20年前のことなのに、私は超就職氷河期世代になったことをいまでも理不尽だと思っています。あのときに社会に出るタイミングを迎えてしまったことに対して、何で自分たちだけこんな目に…と思ったものです。

ただ、最近はさすがに「あのときは運が悪かった」と半分、思うようになりつつあります。もうどうしようもない、努力していたのに報われなかったのは単に運が悪かったとしか言いようがない、知らん!と思っています。それと同時に、運の良し悪しは生まれてから死ぬまで±ゼロになると思っていて、運が良いときが必ずくると思っています。運が悪いっぱなしということはないはずです。運は努力でどうにもならないことですから全員に等しく与えられています。

運が良いときは何もしなくても恩恵にあずかれる、運が悪いときは何もしなくても被害に遭う。

野球に全力で取り組んでいる高校3年生はみんな「何で去年でも来年でもなく今年なんだ」と思っているでしょう。運が悪かったというひと言で片付けられる問題ではありません。まだまだ人生先は長いといっても、彼らにとっての人生はいましかないわけです。納得できるわけがないでしょう。

しかし、運が悪かったのです。仕方ありません。でも悔しい。何で自分たちだけ。ただ、運は貯められます。ここで失った運の良さを貯めておけば、いつか一気に取り返せるはずです。でも悔しいよな、高校生。