電車の中の恋人

酒とタバコと電気ベースと料理とキャリア…まあいろいろ

既存メディアがすがすがしいほどに双方向性をスルーしている

新聞やテレビといった既存メディアの最大の課題は双方向性であることを痛感した年末年始です。新聞記者だった10年以上前から気付いていたことですが、この年末年始に民放地上波のテレビ番組を見て再認識しました。

この年末年始は久しぶりにテレビをよく見ていたのですが、番組の内容や出演者ではなく、CMの長さと多さ、一方的さばかりが気になりました。うんざりしてチャンネルを変え、変えた先でもCMで、結局、電源を切ったことも何度もありました。

情報の押しつけ

最近よく見ているYouTubeでもCMはありますが、画面下のバナー広告はすぐ消せますし、画面全体のCMでも5秒後にスキップか、せいぜい15秒程度です。しかも、好きな動画に関連するCMが多く、一方的に押しつけられたと感じることがあまりありません。

また、Amazon Prime VideoとNetflixを契約していますが、こちらはまずCMがほとんどありませんし、あってもすぐにスキップできます。そして、やはり視聴者の興味に関連するものばかりで、一方的さがありません。

民放地上波のテレビ番組はスポンサーがいなければ成り立ちません。また、CM内容はあくまでも「この番組を見るであろう」という想定視聴者向けです。視聴者の数%に届けば御の字で“下手な鉄砲も数打ちゃ当たる”状態、CMを見せられる側を考慮していません。

「これを知っとけ」

ひと昔前まではこれでも問題ありませんでした。情報を発信する側が少なく、受け手側の情報を得る手段も限られていたからです。情報の受け手側の興味もいまのように多種多様ではなかったので、それこそ数を打てばどれかが必ず当たる状況でした。

新聞記者時代は常に「読者はこれを知っておくべきだ」と考えながら取材し、記事を書いていました。数少ない情報発信側として、無駄な情報を伝えることなど許されず、厳選された情報のみを伝えなければならない、と考えていました。

記者にとって最も重要な資質はネタに対する感度です。些細な情報を耳にして、それがニュースになるかどうか、すぐに判断できなければなりません。そして、それは新聞社や雑誌社、テレビ局といった限られた環境で経験を積むことでしか身につきません。

情報の価値が暴落した

こうしたスキルを身につけ、情報を発信していた人々が少なかったからこそ、新聞やテレビが重宝されたわけです。受け手側も「新聞やテレビがそう言うなら」となり、流れてきた情報を何も考えずに受け入れることがほとんどだったはずです。

しかし、いまは発信側も無数になり、受け手側が欲しい情報を自分で選べるようになっています。また、発信側が受け手側のニーズを把握する手段も増え、ある情報を求めている人に対してピンポイントで発信できるようになりました。双方向のやり取りができているわけです。

上から目線

それに対して、新聞やテレビはどうか。受け手側の声を聞いているか、自分たちが良いと思う情報、金を出してくれるスポンサーのCMを一方的に垂れ流しているだけではないか、「俺たちが選んだ情報だけ知っていればいい」という上から目線を引きずっているのではないか。

CMはスポンサーのものであって自分たちは関与できず、持ち込まれたものを放映するだけであることも分かります。ただ、もう少し工夫できるのではないか、例えば「○○はCMの後」と無関係なCMで引っ張り続ける手法を直すことはできるのではないかと思うわけです。

みんな分かっているけれど

既存メディアの若手はみな、双方向性の重要さをよく理解していますし、何とかしないといけないと思っています。私の元同期たちも試行錯誤を繰り返しています。ただ、悲しいかな、これは!と思ったことは自分たちの存在意義を否定し、実現できないようなことばかりです。

新年早々、古巣に残っている元同期から「今年はマジでヤバいかもしれん」と知らされ、新聞社の在り方を考える正月です。