踏ん切り
やはり転職は無理かもしれません。
ふみちゃんを一目見てしまうと、この場所にオフィスを構えるいまの会社を離れられません。「なに考えてんの?」というレベルですが。
ふみちゃんがいなくなってしまうといったものであれば忘れざるをえませんが、そうではなく自分から忘れようとすることは少なくともいまはできません。
今朝もふみちゃんを一目見たくて1階まで降りてしまいました。今朝はふみちゃん1人だけで、話しかけたい衝動に駆られましたが、ぐっとガマンです。
ふみちゃんにやらかし、電車の時間を変え、ふみちゃんに姿を見せなくなってから間もなく1年が経ちます。ふみちゃんは私のことなど忘れているでしょう。
しかし、私はふみちゃんのことを考えなかった日は1日もありません。24時間365日、ふみちゃんのことで頭がいっぱいです。
転職は縁とタイミングです。あちらは「いま」来てほしいわけです。今回断ったら次はもうないでしょう。それはよく分かっているのですが、どうしても踏ん切りがつきません。
私、バカなのです。
仕事をする理由
仕事とは自分自身のためにするものです。
「生活のため」という直接的な理由はもちろん「仕事を通じて自分自身を成長させたいため」という理由もあるでしょう。頭では分かります。
しかし、私はどうしても「会社のため」「尊敬する上司のため」「一緒に良いものを作ろうとしている仲間のため」と考えてしまいます。
そのためには、さまざまな責任をかぶりますし、無理をしても構いません。「仕事は単に生活費を稼ぐためだけ」と割り切ることはできません。
クビ宣告を受けた昨年以降、前職の新聞社や学生時代の先輩が編集長を務める出版社、果てはヘッドハンターからまで誘いを受けました。
とてもありがたく思いました。これまでの仕事に対する姿勢や、その過程で培ってきたスキルを認めてくれる人がいることに救われました。
そのときは不本意ながら去っていった仲間の分までいまの会社でがんばって、いつか書籍編集部を再興しよう、私はここに残って気を吐いていこうと思いました。
ただ、干されている状況が続いていると、どうしても自分自身を見失いがちです。そして、そこに「君の能力が必要だ」と言われると心が大きく揺れます。
昨年末に弊社を退職したスタッフの転職先の役員と先日、お目にかかりました。そのときの約束どおり、オフィス街が閑散としているであろう来週、もう一度、会うことになりました。
wakabkx.hatenadiary.jpお目にかかった後、書籍の出荷が終了し、20年ぶりに大泣きするということがありました。張り詰めていた糸が切れた、ターニングポイントだったと思います。
誰もが1度は目にしたことがあるであろうニュースサイトの副編集長として誘われています。第一次成長期が過ぎ、上場に向けた第二次成長期を進んでいます。
正直言って惹かれています。何よりも私を必要としてくれていることを意気に感じています。自分を必要としてくれる場所で能力を発揮できることほど幸せなことはありません。
悩みは尽きません。