文章の限界と無限の可能性
LINEは本当に便利です。
友人との連絡だけでなく仕事でも使っています。もちろん会社支給のスマホにインストールするのではなく、個人のスマホでのやり取りです。
スマホやLINEが当たり前のいまの若者たちは、彼女の家に電話をかけたらお父さんが出てあたふたすることなどないでしょう。それはそれで愉快な思い出ですが。
ただ、あくまでも文字だけのやり取りです。発言の意図がお互いに上手く伝わらず、ケンカになることは多々あります。それはFacebookやTwitter、極端な話、ブログでも珍しくありません。
私はこれまでずっと文章に向き合ってきました。大学は文学部仏文科、新卒で入った会社は新聞社で記者、2社目は出版社で編集者、いまは出版社ではないものの編集者として勤務しています。
文章には無限の可能性があると信じています。
バルザックの『ペール・ゴリオ』『幻滅』、スタンダールの『赤と黒』、スコット・フィッツジェラルドの『グレートギャツビー』、藤沢周平の『蝉しぐれ』、わが師匠である三浦哲郎先生の『忍ぶ川』。
悩んだときに数々の文章に励まされ、考えさせられ、さらに悩まされ、凹まされてきました。自分は一生、文章と向き合っていくべき人間なんだと本気で思っています。
しかし、文章に限界があることにも気付いています。それを認めたくない自分と認めざるを得ないと思っている自分が日々、立ち位置を入れ替えてせめぎ合っています。
私はウェブ上での議論を一切しません。絡まれたり煽られたりすることは多々ありますが、こちらの意図が正しく伝わらないことがほとんどだからです。
以前、派遣スタッフが急に来なくなった、いわゆる逃げたということを書いたときに軽く炎上しましたが、そのときに文章を正しく読める人間は意外と多くないことを知りました。
それと同時に、書き手である私の力量不足だったのではないかと思いました。言葉の取捨選択や言い回しなどかなり気を配ったつもりでしたが、それでも足りなかったのかもしれません。
「かもしれません」と無意識で書き、それに気付いた上であえてママにしますが、心の中で文章に限界があるのではないかと思ったことも事実です。
自分の文章力のなさを棚に上げて、文章自体が不完全なものであると思ってしまうときがあります。文章だけのやり取りにはどうしても限界があるのではないか、と。
直接会って目を見て表情を見て、身振り手振りを交えて話すことは大切です。ただ、文章だからこそ言えることもあります。どちらにも無限の可能性があり、限界があるわけです。
そのさじ加減が上手にできるようになったとき、文章の本質を理解できるのではないかと思っています。「AIが及ぼす知財分野への影響」などというタイトルで深夜に原稿を書かされているうちはまだまだということです。
私の仕事って何だったっけ?