電車の中の恋人

酒とタバコと電気ベースと料理とキャリア…まあいろいろ

紙媒体

「なあ、オレたちがやっていることって何の意味もないのかなあ…」

ベースの弦を買おうと思い、帰りに横浜駅前のイシバシ楽器に向かって歩いている途中「あれっ、ずずず?」と新聞記者時代の先輩に声をかけられました。

新聞記者を辞めるとき、私は他の記者の意見のすべてを背負い、上層部との交渉の矢面に立ったうちの1人でした。守るべきものが何もなかったからです。

先輩はもちろん、同期や後輩もみんな守るべき家族を持ち、どうしても一線を越えることができませんでした。そして、それは仕方のないことだと思っていました。

何者にも従わない、常に自由であり続けるのが新聞記者と思われがちですが、所詮はサラリーマンです。守るべき家族を持つと身動きに相当の制限が生まれます。

「良いものを作りたい、読者にとって有益な情報を届けたい」と常に考えていましたが、それだけでは成り立たないのが組織です。

もちろん、それは私もよく分かっていました。しかし、それを理解した上で「そうではない」と言う人間が必要でした。

そして、それを言えるのは、独り身だからいざとなったら何とでもなると思われていた私であり、実際に言った結果、辞めることになりました。

それに対して何の不満もありません。常に思っていたことでしたし、むしろはっきり言う機会を得られたことが嬉しくもありました。

先輩はきっと、私のように思うところをすべてぶちまけたかったはずです。しかし、ぶちまけられず、悔しかったのではないかと思います。

斜陽産業と言われて久しい紙媒体です。転職したいまの会社でも紙の書籍出版事業が廃止されてしまいました。

前職である新聞社も発行部数が右肩下がり、これに比例して広告収入も右肩下がり、先がまったく見えていないそうです。

紙媒体は本当に不要なのか?

私の答えは「No!」です。しかし、誰をも納得させられる数字と明確な論理を示すことができないことも事実です。

「私は意味があることだと思ってやっていますし、これからも続けるつもりです」― このように返すだけで精一杯でした。

世の中は盛者必衰です。常に盛況であり続けることなどありません。逆を言えば、いま衰退しているものもいつかは盛り返すはずです。

紙媒体の底はもう少し先だと思っています。底に達したとき、次は上がっていくしかなくなります。もう少しのガマン…と思いつつがんばる毎日です。