電車の中の恋人

酒とタバコと電気ベースと料理とキャリア…まあいろいろ

小説が読めない

村上春樹さんの新作がまったく読めません。

内容が悪いわけではありません。まだ十数ページしか読めていませんが、村上作品とともに過ごした多感な時期に一瞬で戻してくれる、とても良い作品であるように感じています。

しかし“読者”ではなく、どうしても“編集者”として見てしまうのです。文体はもちろん、表記や読点など、内容以外の部分が気になって仕方ありません。

久しぶりに現代文学を読むに当たり、それなりに事前準備はしたのです。

印刷会社の営業さんに表紙やカバー、見返し、本文の紙を教えてもらいました。いつもお願いしているDTPにフォントや文字間・行間、1行の文字数、1ページの行数などを確認しました。

内容に没頭するために邪魔になる要素は思いつく限り事前につぶしたつもりでした。しかし、読み始めたらさまざまな部分が気になります。

「“僕”ではなく“ぼく”なのか」
「“わたし”ではなく“私”なのか」
「“第一”ではなく“だいいち”なのか」
「“~に当たって”ではなく“~にあたって”なのか」

数行読むだけでこのようなことが気になりますし、読点の打ち方も私の感覚とは違う村上春樹さんのリズムであることに違和感を覚えます。

決してそれらが悪いわけではありません。あくまでも私の感覚との違いなのです。ただ、私はプロとして文章の感覚を磨いてきたので、人一倍、違いを強く感じてしまいます。

また、ふだんは理路整然とした専門書を制作しているので、純文学で書かれる揺れ動く感情のようなものに必要以上に違和感を覚えてしまいます。

「編集者をやっています」と言われても、具体的にどのようなことをやっているのか分からない人が多いと思いますが、頭の中は常にこのような状態になっているのです。

書籍に限らず、雑誌やウェブの文章を見て、誤脱字は論外ですが「前は“5分”だったのに今度は“五分”って表記してる」ということばかり考えています。

内容に影響があるわけではなく、はっきり言ってどうでもよいことですが、そういう目でしか文章を見られないのです。文章を“読む”のではなく“見る”のです。

編集者とは面倒くさい生き物です。先の展開を早く知りたくて寝る間も惜しんで小説にかじりついていたころにはもう戻れないのかもしれません。