電車の中の恋人

通勤電車で一緒になる女性に恋して散ったブサメンの日常

ガンジス川の恋人

「インドに行く気はあるか?」

……

………

…………は?

休暇明けのダイレクターが出社早々、私を会議室に呼び出しました。私にまで「おはよう」と声をかけてきたので、ほんの少しだけ期待してしまったのですが、そんな私はバカでした。

インドのニューデリーオフィスで書籍出版事業に力を入れている話は小耳に挟んでいましたが、私がそこに行くことなど考えもしませんでしたし、そもそも行ったところで仕事になりません。

当たり前ですが、インドで日本語の書籍を出版するわけではありません。メインはヒンディー語の書籍でしょうし、かろうじて英語の書籍を出版するかどうか、というレベルではないかと思います。

私はヒンディー語の“ヒ”の字も分かりません。話すことも読み書きもできません。また、すべて英語で書かれた原稿の編集から書籍としての制作までをこなせるほど英語が堪能なわけでもありません。

身振り手振りでビジネスの場を何とか乗り切るわけではありません。書籍を制作するのです。現地のネイティブ以上に正確で正しい言語を理解し、使いこなせなければなりません。

無謀であることは誰の目にも一目瞭然で、このような話を持ち出すこと自体、嫌がらせ以外の何ものでもありません。1週間ちょっとの休暇では私に対する怒りが解けなかったようです。

「インドに行けそうな編集者候補を各オフィスから挙げるように、という指示がグローバルで降りてきて、東京オフィスも形だけでも誰かを挙げる必要がある。本気でインドに行かせるつもりはない」

そこでオレか。「形だけ」と言いながら厄介払いにちょうどよいと思って本気で推すつもりではないだろうか。そもそも行きたくないと言ったところで、あとは辞める選択肢しかないはずだ。

「別に構いませんし、命令であれば行きます。相談すべき家族もいませんし、守るべきものも特にありませんから」― 上等だ、ぐらい言おうと思いましたが、何だかんだで小心者なのです。

仮にインドに行ったらガンジス川で沐浴して、そこで毎朝一緒になる女性に恋して、ブログのタイトルも『ガンジス川の恋人』とかに変えて…というバカな妄想をしてしまいました。

ただ、現実的に考えて、インドに行かされたところで仕事ができずに向こうでクビになるのは目に見えています。東京オフィスに送り返されるという選択肢はありませんし、精神的にもボロボロになるでしょう。

冷静に考えると、実は相当、深刻な事態ですが、あまりにも突拍子すぎて自分の身に降りかかった話と思えず、現実感がないというのが本音です。ダイレクターの言葉など信用できませんし。

去年の誕生日はクビ宣告、今年の誕生日直後はインド行きの打診…日ごろの行いはそれほど悪くないと思うのですが、ただブサイクというだけでここまでネタまみれになるのは理不尽ではないかと。

インドに行ったところでいつ帰ってこられるか分かりませんし、ふみちゃんにはもう一生、会えなくなるはずです。そもそもふみちゃんには先週からずっと会えていないのですが。

とりあえず今日のお昼ごはんはカレーにします。

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