電車の中の恋人

酒とタバコと電気ベースと料理とキャリア…まあいろいろ

仕事観

外資系企業というものは、見方を変えればとてもシンプルで、誰に対しても平等であるといえます。今回、私が直面している解雇の場面においても「あなたに求めている仕事がなくなるから」という理由は、誰の目から見ても理解できるものです。

日系企業はビジネスの場においても“情”を重視します。例えば、2名の社員のうち、どちらかを解雇しなければならないとして、一方はとても優秀ですぐに次の職場が見つかるであろうと思われ、もう一方は目立った実績がないごく普通の社員なので次の職場がなかなか見つからないであろうと思われています。

日系企業では、前者を解雇する人事のほうが多いのではないでしょうか。しかし、前者がすぐに次の職場を見つけられる保証はどこにもありません。もしかしたら、数年経っても就職できず、人生のどん底に落ちるかもしれません。

しかし、優秀な社員の解雇直後、予想外の業績向上で誰も解雇しなくてよい状況が続き、後者のごく普通の社員は定年まで無難に勤め上げ、穏やかな一生を終えるかもしれません。

そのときの人事の「前者の彼ならすぐに次が見つかるだろう」という判断には何の根拠もありません。それは単なる思いつきであって、思いつきで1人の人生に対して責任を取れるのかと言われたら、私には無理です。

それに、雇用を守るためとはいえ、まったく毛色が違う業務に配置転換することが、本当にその人のためになるのでしょうか。例えば、これまで編集でキャリアを積んできた私をいきなり営業に放り込むことが良いことなのでしょうか。いずれ辞めることが目に見えているので、私はそれを受けるつもりはありません。

ディレクターとマネージャーとの面談で、なぜ編集部員だけが一気に解雇されないといけないのか詰め寄りました。彼らがいうには、いま営業を募集しているからポジションはあるとのことですが、「いままで編集をやっていた人が営業に移って幸せだと思いますか?」と聞かれました。ぐぅの音も出ません。

判断基準が曖昧な“情”というものを挟むから日系企業のリストラはややこしくなります。“情”をすべて排除し、「あなたに求めている仕事がなくなるから」ということは、誰に対しても公平なのです。

それ以前に、こうなるような経営をしてきた経営陣の責任はどうなのか、という問題がありますが、それは別次元のことですし、外資系でも日系でも、遅かれ早かれ追求されるはずですので、いまは不問に。

昨夜、日系の某大手企業で人事をやっている友人と長電話しました。彼はずっと日系企業で、“人事は企業の根幹を支えるもの”というモットーの下、熱心に仕事に取り組んでいます。“情”にあふれた人事です。

最初は、私の会社の今回のやり方に憤慨していましたが、電話を切るころには納得していました。それと同時に、これまでの人事としての自分のやり方に迷いを感じ始めていました。

外資系企業と日系企業、どちらにも良い面と悪い面があります。一概にどちらが良いといえるものではありません。昨夜、彼と話していて、私の会社の今回の対応が全面的に悪いとは思えなくなりました。

「3連休でゆっくり考えてください」―ディレクターからそう言われました。オンラインメディアに異動する云々の前に、自分の仕事観を一から見直せ、ということなのかもしれません。